鷹羽遣ひを習ふ

結婚といふものを、自分もしてみむとてするなり。

文豪語りと言うより古典になってしまったが(いや、かの紀貫之も勿論すぐれた文豪だ)、
ついに自分も、結婚することに決めた。
慈雨のような彼女と、である。

初めて会ったのはもう二年半ほど前になるだろうか。
以前のブログで記した通り、見合い以降は友人として付かず離れず時を過ごしていた。
日々の他愛も無い話や、読書や映画の感想…彼女の紡ぐ言葉は、いつでも僕を心地良くさせてくれた。
海外赴任で彼女がまる一年のあいだ日本を離れていたこともあったが(何人かの彼氏らしき人物もいたようだったが…)、SNS等で僕らのやり取りは続いた。
それこそ、某二刀流野球選手のように、「いっせーのせ」でVODの映画を観て語り合ったりもした。
過日、帰国して仕事が一段落した頃合いに、彼女は不意に僕に向かってこう言った。

「さて、私そろそろ、あなたと私の遺伝子を継いだ子どもに会ってみたいわ。
あなたさえ良ければ、だけど」

彼女らしい物言いで、思わず笑ってしまった。
もしかしたら、いつ如何なる時も口から物を発する前に、その一語の必要性とか、主語述語文体その他を思慮してからでないと気が済まない性質の自分が、
物心ついて初めて、考えるより先にアハハッと口から出てしまった、素直な笑声だったかも知れない。

嬉しいのか、驚嘆なのか、照れ隠しなのか、どんな感情だったのかはわからないが、
あまりに突然で、そして彼女の言わんとする未来像が自分にもストンと腑に落ちて、深慮する間もなく、
アハハッと出た息をスゥーッと吸ってそのまま
「僕もそう思う」
と返してしまっていた。

いま、自分の仕事にも自信がつき、目の前の道程に光を感じられるようになったタイミングであった。
彼女も丁度、そのような時機であったのかも知れないし、いや、もしかしたら待っていてくれたのかも知れない。
僕が躊躇いなく受け入れられる言葉を吟味してくれたのかも知れない。

完全に彼女に掌握されているなぁと我ながら苦笑してしまうが、
ならば一生、その掌の上で転がしてくれることを密やかに願おう。

鷹羽遣ひを習ふ季節。
我も巣立ちのとき哉。

道程

「この遠い道程のため」

人生の節目や岐路に立つと、この詩に初めて出会った時、自分の脳裏に思い描いた情景がフラッシュバックするのは、きっと僕だけではあるまい。

この詩を初めて知ったのは、ご多分に漏れず中学時代の国語の授業だ。
教科書に実際に載っていたのは同・高村光太郎氏の「レモン哀歌」だったと記憶しているから、そこから派生した学習の一環の中であったのだろう。

先生に指名され、自分が朗読させられたことも克明に覚えている。
僕らは思春期真っ盛り。「道程」の同音異義語を想像して、僕はタイトルを発声するのにも多少の勇気が要った。
「ドウテイだってよーっ」と盛大に茶化す者もいたし、ばつが悪そうに照れ笑いしている者もいた。先生の「静かに!」という怒声も飛んだ。
しかし、詩を読み進むにつれ、教室は静まり返った。

一見、楽しそうに見える学校生活ではあったが、皆きっと将来に漠然とした不安を感じている年頃であったろう。

たった10行にも満たない詩が、僕らの心に、何か覚悟のようなものを刻んだ。
そんな教室内のシンとした空気を感じた。

その時の僕に浮かび上がった情景は、富士の樹海にも似た(行ったことはないが)、鬱蒼とした道なき道。時おり茨の棘も視認できるような。

表面では笑いながらも、これといった将来の夢も持てず、ただ焦り、迷い、悩み、軋んでいた日々。
「若い子はいいわねー、これから何でもできて」
と大人に言われても、その「何でもできる」が足枷となって、一歩も踏み出せない時だった。

そして今もまだ、着実な一歩を踏み出せるようになった、とは言い難い。
でも、踠けるようになった。
踠くことを、格好悪いなどと理由をつけて逃げることをしなくなった。
道程の情景は鬱蒼としたままだが、棘はいつしか消え、僅かだが目的地の光が挿してきたように感じる。

棘が消えたおかげか、このブログでも二度ほど登場した、件の「金持ちのバカ息子」と二人で、司法書士・行政書士事務所を開業することになった。
いやぁ、人生はわからない。

お互い若い頃はバリケードを張っていたのだろう。彼が再チャレンジの末、晴れて行政書士となった時に、声をかけてみた。
腹を割って話してみたら、無二の友となったというわけだ。
そしてお互いキャリアを積みながら、二人揃って司法書士試験にも合格し、このたび事務所開業の運びとなった。
いやぁ、人生はおもしろい。

そしてこれからも、まだまだ道半ばの、遠い遠い道程のため、踠きながら行く先を拓いていこうと思う。

慈雨

其の人は、僕を変えた。
自分史と云うものが存在するなら、恰もジュラ紀から白亜紀への移行に匹敵するかのような変化を僕にもたらしてくれた。

其の人というのは、前回記した見合い相手のことである。

実は、第一印象は芳しいものではなかった。初めて対面する前に一通のメールを貰っていたのだが、文体が些か稚拙に感じ、自分とは合いそうにないと感じたのだ。
今思えば何と不遜であったのだろう。そんな浅はかな感情は、実際に彼女と会い、その後何度かメールのやりとりをして完全に一掃された。
誰が相手でも文豪語り一辺倒な僕とは違い、最初のメールは相手を気負わせず返信しやすくしてくれるための、柔軟な彼女の気遣いから来たものであった。
実際に会って僕という人間を理解するや否や、彼女は一語一句吟味された最適な語を用い、機知に富んだ話で楽しませてくれたのだった。

さて、僕はジェンダー差別や「男は〇〇」といった固定観念については嫌悪している立場だが、それでも思わずにいられない。
僕がブログを記していることを母親に教えたことなどただの一度も無い。だが何故か母は知っていたのだ、此処の存在を。そして僕に何の了解も無く、見合いの彼女にも伝えていた。
こうした件の母親の嗅覚や女性の伝播力というのは心から脱帽する。
閑話休題。兎にも角にも彼女はこのブログを読んだわけだ。照れ臭く思いながらも話の流れで感想を聞いてみたところ、僕を揺るがす意見が返って来た。
前々回の行政書士試験の記事についてである。

「従兄弟さんのことを金持ちの馬鹿息子というけれど、
あなたもご両親やご先祖様から、独学で勉強するだけで難関試験が受かる才能を授かっているじゃない。
お金も才能も、物理的に目に見えるか、数えられるかの違いだけで、あなたも恵まれているのは同じ。
そのことにまずは感謝しないと」

個性的な文体だね、といった当たり障りのない感想が返って来ると思っていたので僕は面食らった。
正論すぎてぐうの音も出なかった。
しかし、まったく不快ではない。
彼女は、僕を責めるでも蔑むでもなく、ストンと腑に落ちる言葉で気づかせてくれたのだ。

自分の努力だけで人生を歩いて来たと思っていた。
そして自分でも知らず知らずのうちに、自己防衛のために張り巡らせてしまった
ささくれのようなバリケードを彼女は潤し解してくれた。
慈雨のような人だ。

肝心なことを綴り忘れていたが、見合いという出会いではあったが、所謂「結婚を前提としたお付き合い」というような進展は今のところ無い。
彼女曰く「まだ仕事もやりがいがあり今すぐ結婚など考えられない。でもあなたの話す言葉の選び方が心地良いから、友達として偶に会いましょう」と言われており、
今さら彼女に対して無用なプライドなど一切持たない僕は、それに従う状況を楽しんでいる。
実は僕も、この敬愛にも似た心情が果たして恋愛感情なのかは定かではない。
それでもこの関係を継続するために、今日も彼女が好みそうな言葉を紡いでいこうと思う。

寒蝉鳴

随分と早いように思うし、しかし早くから準備するに越したことは無いのかもしれないが、ただ一つ言えることは現代でも未だそのシステムが稼働している点に感心した。

お前に見合いの話が出ていると、母から連絡があった。本来であればお盆に帰った際に話をするつもりだったらしいが、この時勢なので電話での打診となった。もう昨年の正月以来両親をはじめ身内に一切会っていないが、両親とは頻度こそ少ないものの電話で会話はしている。これまでの電話での会話を振り返ったが、見合いなどそんな素振りは一切なく、いつどこからそんな話が出たのか全く想像がつかなかった。突然の「見合い」の言葉に面食らった僕は、この後ガス設備点検のために人が来るからまた夜に連絡すると電話を切った。なお、ガス設備点検は先週終わっている。

電話を切って思ったことは、なぜ僕に?であった。四十目前になっても結婚相手がいなければ見合いの話が出ても納得だが、まだまだそんな年齢ではない。ではお前はその年齢までに結婚できるのか?結婚相手がいると胸を張って言えるのか?と問われると、それはそれで返答に窮する。学生時代に二人と付き合ったが、どちらも数か月で終了している。これは色々な理由があってそういう結果になったのだが、ただその時の経験から気付いたことは、自分は相当努力しないと他人と生活を共にするのは非常に困難だということだった。

この時勢なので顔合わせは当分先になりそうだが、まずは見合いをする意志があるか、無いかをはっきりさせなければならない。

青草の繁

2018年は正月明けから猛勉強の日々だった。

母方の祖父は何十年も前に豊中市にある大学を卒業しており、祖父の影響もあって僕も豊中市にある大学を受験、進学した。祖父は起業し、今は長男(僕から見た伯父)が継いでいる。その伯父の息子と昔から反りが合わない。どう贔屓目に見ても頭が良いとは言えぬ代物で、都内の某有名私立大学へ進学できたのもどういうカラクリなのか不思議でならない。親の金に守られて生きている事に一切気づいておらず、全て自分の実力でここまでやってきたと思っている馬鹿息子が、2018年新年を祝う親族の集いで何を思ったのか「行政書士になる」と宣言した。どうも御学友の一人が将来独立するために行政書士を目指すらしく、馬鹿息子もそれに感化した模様。

いろいろ突っ込みどころ満載なのだが、その時思ったのは『在学中に行政書士試験を受験、合格したらどうだろか?』だった。すぐさま行政書士試験について調べ、テキストや問題集を買い、それから毎日朝から晩まで勉強した。如何なる試験も勉強すれば必ず合格するものだ。馬鹿息子は親の金でスクールに通ったが、僕は独学で勉強した。試験までは合唱サークルの参加は控え、塾講師の仕事もかなり減らしたがゼロにはしなかった。サークルや塾講師の仕事が息抜きになったからだ。

高い金を払ってスクールへ通った馬鹿息子は不合格だったが、独学の僕は合格した。両親と祖父にだけは合格したことを報告した。受験してよかったことは、塾で「僕も行政書士試験に向けて勉強しているから一緒に頑張ろう」と生徒に言えたこと、僕が生徒より一足先に結果を出し生徒にプラスの効果となり、僕の教えた子は希望の進路に進むことができた。

三つの顔

僕は今、大学生、合唱サークル、塾講師の三つの顔を持っている。

塾講師として働き始めて1年半くらいになるだろうか。僕の住んでいる辺りには、これでもかという程あちこちに塾がある。塾、塾、塾・・。僕の地元も人口が多かったのでそれなりに塾はあったが、豊中市のように目をつぶって歩いても何かしらの塾にたどり着くというようなことはなかった。豊中市には教育熱心な家庭が多く集まっているのかもしれない。

今働いている塾はサークルの先輩の紹介で知った。大学生活に馴染み、そろそろバイトでもと思っていた時に紹介してもらったのだ。大手ではなく、個人経営の小さな塾である。塾長の方針で、講師は現役講師の紹介でないと入ることが出来ない。もちろん求人サイトや大学内のアルバイト紹介にも出ていない。また、誰でも紹介してよい訳ではなく、塾の目指している方針を理解し、その方針に合いそうな、信頼できる人間に限って紹介してよいという決まりがあった。僕はまだどんなバイトをするかイメージすらしていなかったが、先輩から紹介して貰えたのは何かの縁だと思い、塾講師をやってみることにした。

ありがたいことに僕は雇ってもらえ、週2回、一日3時間くらい働いている。時給は他校の塾講師のとさほど変わりはない。授業の準備は自分で行い、報告書は授業ごとではなく、週1回定期的に生徒の様子について書く。友人が大手の塾でバイトをしているが、サービス残業や学校前でのチラシ配りなどを強要されるとぼやいていた。僕も入ってすぐはサービス残業やチラシ配りをやらされると覚悟していたが全くそんなことはなく、報告書を書く時間もきちんと給料が発生した。他にも、テストの点を無我夢中で上げることよりも、生徒が自分の将来に希望を持てるようにすることを目指す塾の方針や、塾長のこだわりが随所に見られるのも、僕にとって刺激敵で、また学ぶことも多くある。

ふと、この塾で働いている自分を不思議に感じてしまうことがある。もしかしたら大手の塾で働いていたかもしれない。もしかしたら飲食業、もしかしたらサービス業だったかもしれない。ここで働けているのは、ひとえに縁のおかげである。美人の先輩に声をかけられ、体験練習へ行き、合唱サークルに入り、先輩に塾を紹介してもらい、そして今に至る。縁とは不思議なものだ。

今日も僕は、長い坂を登る。

僕が通う大学は丘の上みたいな場所にあるため、学校へ行くには坂を登らなければならない。これが結構大変で、かと言って毎日通えば自然と運動不足が解消されるといった類のものでもなく、毎朝僕はそこはかとない徒労感とともに大学へと向かう。

僕は法学部で、法学部の授業は大抵が講義である。成績評価は試験一発で決まることが多いので、一見授業に出なくてもよさそうに見える。しかし、法学部で学ぶ内容はとても難しいため、凡人が独学で何とかできるようなものではない。それゆえ、単位が欲しいなら授業に出席するに越したことはないのである。もっとも、昔から長時間話を聴くのが苦手で、高校時代に偉い人の講演会があったときも爆睡をかましていた僕が、大学の授業でどうなるのかについてはお察しの通りだが。

僕が通う大学には多くのサークルがある。僕は合唱サークルに所属しているのだが、高校時代まで合唱とは縁のない人間だった。大学入学したばかりの頃、行く宛もなくフラフラしていた僕に、美人の先輩から「体験練習に行きませんか?」と声をかけられたのが始まりだった。突然のことで「はい!」と返答してしまった僕は、考える余裕もなく先輩とともに体験練習へ向かった。『合唱なんて、学校でやった程度のものだろう』そう思っていた僕は、合唱の響きに圧倒された。合唱に魅せられた僕は、その日のうちに合唱サークルに所属したのだ。

サークルの練習は週三回。曜日は固定されておらず、毎回打ち合わせをして練習日が決まるのだが、土曜にも練習が入る=休日を取られるのには少なからず不満はあった。しかし、新しい趣味ができたことで、少し僕の世界も広がったのは確かだ。

色々書いたが、今の生活はそこまで悪くはないと思っている。そして明日も僕は、そこはかとない徒労感を胸に坂を登っていくだろう。

何故、学園祭で救命講習?

さて、今回は大学における一大イベント、学園祭の時の話をしよう。

僕の通うだ大学では11月に学園祭がある。学園祭といえば各クラブ・サークルの出し物や模擬店が目玉だが、僕が所属しているサークルでは綿菓子の店を出店することになり、学園祭実行員へ報告に行くと、「学園祭に出店する各サークルの代表者は救命講習を受けるように」とお達しがあった。僕はサークルの代表者ではないので行かなくて大丈夫と、完全に油断していた。

サークルに戻り代表に伝えると、「救命講習の時間と授業が重なっているから、誰か代わりに行ってくれないか?」というではないか。その場にいたメンバー5人のうち、1人は足早にその場から音も無く立ち去り、2人は授業があると言い、1人は実行委員の手伝いがあると言い、視線が僕に集まった。サークル内きっての暇人と名高い僕に白羽の矢が立ったのである。

救命講習の行われる日時は、僕にとって授業もアルバイトも何も予定が入っていない貴重なOFFタイムだった。そんなOFFタイムを潰すなどあってはならないことなのだが、代表の頼みとあらば仕方がない。それに、(後から知ったことだが)サークルのマドンナと言われる子も一緒に受けるので、まあ悪くはないだろうと気持ちを切り替えた。

講習当日。豊中市消防局の救急救命士の説明を受けながら、1時間半かけて救命措置を学んだ。講習を受けながら僕は「今何をしているのだろうか?なぜここまでしないといけないのか?」と考えずにはいられなかった。綿菓子と救命救急の関連性がどうしても結びつかなかったのである。他の模擬店も命に係わる出し物は無い。なのに何故救命救急・・?昔から疑問に感じたことは調べなければ気が済まない質である僕は、講習後すぐにスマホで調べてみた。『Vida verde!緑のある生活』というサイトの豊中市の項目に、豊中市は救命活動に力を入れている内容を読んで納得。なるほど、そういうことだったのか。

前回僕は、自分が住んでいる豊中市のことをとても気に入っていると書いた。しかし、サイトを見るまで、豊中市は日本センチュリー交響楽団やガンバの選手などプロが多くいること、千里中央公園には長いローラー滑り台があること、救命講習の修了者数や、救急隊・救急救命士の数が多いことを知らなかった。普段住んでいながら気にもとめることのなかった豊中市のことに、少し詳しくなれた気がする。豊中市、奥深い。

吾輩は豊中市に住む大学生である

 僕は、豊中市に住むとある大学生である。最初の記事なので、まずは簡単に自己紹介をしようと思う。

 僕は現在、豊中市にキャンパスがある大学に通っていて、大学の近くで一人暮らしをしている。実家は関東の方にあるので、大学の友人に「東京の方が近いし大学もいっぱいあるのに、なんでわざわざ大阪に来たん?」と聞かれることがよくある。理由はいくつかあるのだが、ひとつはずっと一人暮らしに対して憧れを持っていたということがある。誰の目も気にすることなく、友人を自宅に呼んだり、好きな時間に遊びに行って、門限など気にせず遅くまで出歩けるという点がとても魅力だった。だけどそれだけではない。家事や金銭管理等、自分の生活のすべてを、自分で管理する経験を、時間のある学生のうちにできること。それも僕にとって魅力的なことだった。

 僕が豊中市を一人暮らしの場所として選んだのは、その交通の便の良さにある。大学が豊中市にあることから、豊中市に隣接する池田市、箕面市に住んでいる学生も多いが、利便性を何よりも大事にしたかった僕は、交通の便が良いと感じた豊中市に住むことにした。最寄駅は蛍池駅になり、蛍池には阪急とモノレール、2つの路線が接続された駅だ。阪急に乗れば梅田まで15分(普通なら20分)ほどで出ることができるし、モノレール沿線には万博記念公園やエキスポシティなど魅力的なスポットが沢山ある。さらには伊丹空港も近く、自宅から歩いて行けてしまうほどの距離である。大都市の中心部まで直接アクセスできて、郊外のスポットにも行きやすく、さらに飛行機で各地に飛ぶことも簡単にできるというこの上ないロケーション。住み始めて2年近くになるが、僕はこの豊中市をとても気に入っている。